ベンチャー起業家!? 伊予鉄の創業者 小林信近
- 2021.10.11
- 伊予鉄の歴史
いよ子です。
「石橋を叩いて渡る」を超えて
「石橋を叩いて、壊して、渡らない」
かつて、こんな言われ方をしたこともありました・・・。
あ、これ、伊予鉄のことです。
若干、皮肉も込められていたと想像しますが、その裏には「堅実経営」という響きも含まれていたのではないかと思います。
さて、遡ること130年あまり・・・。
その伊予鉄を創業したのは、まさにピッカピカの地元の名士「小林信近」というお方です。
しかしその発想たるや、「堅実」と言うよりはむしろベンチャー精神の塊であったと推察します。
小林信近のスゴイところ
超田舎だった松山に日本で2番目に民営鉄道を開業してしまう!
いやちょっと待ってその発想はどこから出てきたの?(斜め上行き過ぎ)
そもそも伊予鉄ができた明治20年は、鉄道がまだあまり世の中に知られていない時代のことです。しかも超田舎の松山に、ということですから最初は誰も理解してくれません。
国に認可を申請しても
「田舎者め!お前はバカか?正気の沙汰でないわ(# ゚Д゚)!」
※あくまでもニュアンスです。
と、鉄道局にあっさり却下されるわけですが、小林はこれであきらめない鋼のハートを持っていました。
申請先からのダメ出し(←ほぼ言いがかり)に対して、粘り強く代案を提案し、なんとか認可を得ることに成功。明治21年の開業にこぎつけたわけです。

軽便鉄道って何?
ちなみに、小林さんは、同じ鉄道でも「軽便鉄道」(簡単にいうと小型の鉄道)に着目し、日本で最初にこれを導入しました。最初は主に材木を輸送することが頭にあり、軽便鉄道はそれに適したサイズだったのでしょう。夏目漱石の小説「坊っちゃん」に「マッチ箱のような汽車」とありますが、軽便でなければ、あのフレーズは生まれなかったかもしれません。そもそも、小林が伊予鉄を作らなければ、漱石が松山にくる場面はまったく違うものになっていたことでしょう。
その軽便鉄道、どの時点から人の輸送をメインとした計画になったかは不明ですが、結果経営陣の予想を超えた利用があり、大成功といえるスタートになりました。この鉄道が松山の経済発展の素を作ったのは間違いありません。
※小林が敷設した軽便鉄道の軌間は2フィート6インチ(762mm)。ちなみに現在の軌間1,067mmに比べて随分小型だったことが伺えます。坊っちゃん列車ミュージアムで現物を展示しています。https://www.iyotetsu.co.jp/museum/

社名が伊予鉄道になったワケ
実は最初は「松山鉄道」にしようとしていたんです。ところが、第1回株主総会で都筑温太郎という人が、
「松山鉄道じゃ名前が小さい! 将来は伊予(愛媛)各地に延長するんじゃ! 社名は伊予鉄道にすべき!(*´Д`)」
※あくまでもニュアンスです。
との主張が通り、「伊予鉄道」となったのでした。
実際に今は松山市以外の市町にも路線が延長されましたので、「伊予」にしておいて良かったですね(都筑さんグッジョブです)
創業当時はたった34人※でのスタートだった
その後、路線の延長、他の鉄道会社の合併、電力事業への参入、戦争など、激変する時代とともに伊予鉄は発展していきます。
果たして伊予鉄は「石橋を叩いて、壊して、渡らなかった」のか?
伊予鉄の歴史を読み解くと、
「叩いて壊した」というより、
「時代を渡る橋を架け続け」そして、「渡ってきた」
と思えてきます。
創業者である小林信近のベンチャー精神を受け継いできたからこそ、伊予鉄は成長することができたのかもしれません。
では、伊予鉄はどんな橋を架けてきたのか。
それはまた次の機会にご紹介します。
※伊予鉄道100年史によると、創業時は初代社長の小林、幹事2名、列車長・助役2名、駅長兼会計係・助手6名、乗客係・助手6名、貨物係・助手6名、書記1名、補助員3名、小使7名。今なら「そんな人数でできるわけないじゃろ(‘Д’)」と言われそうですね。

松山市駅前には小林信近の銅像が設置されています。

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