~坊っちゃん列車復元物語~②プロジェクトチーム!

さて!お久しぶりにこのシリーズです!いよ子です。

シリーズ①元は蒸気機関車!https://iyotetsublog.com/2021/10/15/post-201/ こちらの記事で、坊っちゃん列車は元々蒸気機関車でしたよ~というお話をしましたね。そして最後に、プロジェクトチームとして奮闘した社員にインタビューしました!という匂わせで終わっていました(笑)

そしてご協力いただいたのは、伊予鉄の社員であり松山市議会議員の大亀やすひこさんです!実は大亀さん、坊っちゃん列車復元プロジェクトチームのメンバーだったんです!快くインタビューに応じてくれました♪

プロジェクトチームの役割

※ここからはインタビュアーいよ子!!✨ついてきてください~!ぽっぽ~!!🚂

いよ子「プロジェクトチームはどのような役割分担でしたか?」

大亀さん「当時は庶務課(現:総務課)に在籍し、市内電車の定時運行ダイヤに支障をきたさないよう組み入れること・坊っちゃん列車の汽笛の音色や走る姿、乗務員の服装やふるまいなどを決めるミッションを担当しました。」

坊っちゃん列車の乗務員と言えば、テーマパークキャストの方々のような接客!街を走る坊っちゃん列車に手を振ると、振り返してくれます。いよ子はそれが嬉しくて、いつも手を振ってます♪

大亀さんは、当時の庶務課で上記のミッションを担当。そして、他の部署ではそれぞれの専門分野(下にあるようなミッション)にあたっていたようです。

  • 他と大きく異なる車両や乗降客の安全基準の確保
  • 終端駅で車両を回転させる方法(観光列車なので、前向きの運行をしたいため)
  • 運転免許の取得・車両整備者の育成
  • 環境への配慮

今、こうして文字にしてしまうとなんだか簡単に見えてしまうかもしれないのですが、この課題の山・・・ゾッとしてしまいます。しかも、伊予鉄の社内だけでどうにかなる問題だけではありませんでした。

軸は「本物志向」

大亀さん 「定期的な営業運転を前提とした坊っちゃん列車の開発は、全国的にも例のない事業であり、かつ国の許可も必要でした。法令をクリアする中で、いかに本物に近づけるかが大きな課題でした。」

実現にはたくさんの課題があった坊っちゃん列車の復元ですが、この「本物志向」が課題でもあり軸でもあったということですね・・・。

「復元することが決まった時の想いを教えてください。」

大亀さん 「伊予鉄の創業者小林信近翁が鉄道創設を提唱した際に揶揄された、『正気の沙汰ではない』と、最初は感じました。実は、地域の方や経済界からそれまでに何度も復元を求める声を頂いていたようですが、電化された今、石炭を焚いて走る蒸気機関車を再現することは、維持管理の大変さ、費用対効果に加え、環境問題が社会問題化する中、世論の支持を得るのは困難だとの判断で実現には至っていませんでした。」

「正気の沙汰ではない」と感じた大亀さん。しかし、その後ある事に心を動かされ、その気になったと言います。

ー「坂の上の雲」のまちー

大亀さんが「その気になった」というきっかけ。それは、平成11(1999)年4月に松山市長となった中村時広氏(現・愛媛県知事)の想いでした。

大亀さん 「『坂の上の雲』のまちづくりを具現化する為に、坊っちゃん列車は必要不可欠なコンテンツであり、明治の風情を感じさせる列車が近代風のビルが立ち並ぶ中を、駆け抜けるようなまちは世界中どこを探しても無い、必ずや坊っちゃん列車は、城、温泉に匹敵する松山の顔になると力説する市長の姿に私含め多くの市民が心動かされ、その気にさせられたのではないかと思います。」

たしかに、明治香る蒸気機関車型の路面電車が市街地を走る姿は、坊っちゃん列車が復元20周年を迎えた今でも珍しいですよね。そして、坊っちゃん列車は愛媛・松山観光の顔と言える存在になったといよ子も思います。坊っちゃん列車に遭遇した際、観光客の方々がカメラを向けたり、手を振ったりしてくださる姿を見るとそれを実感します。

ー欠かせなかったOBの存在ー

「OBの方々の協力も大きかったんですよね!」

大亀さん 「実際に、坊っちゃん列車に乗務経験のある方や、お父さんやおじいさんが明治、大正期に坊っちゃん列車に乗務していたOB諸氏15名程度を個別訪問したり、一緒に座談会等を行いました。」

その座談会めっちゃ参加してみたかった~!と思ういよ子・・・。そして大亀さんは続けます。

大亀さん 「制服の資料もなく、OBが持っていた写真を提供してもらい、再現ができました。坊っちゃん列車の運転士は、立派な髭を蓄え、西洋風の外套をまとい、威厳があり凛々しく人気だったそうです。また、汽笛の音色も、もちろん記録がありませんでした。SL機関車のような重厚音でなく甲高く耳によく通る音色だった、というOBのヒントを基に職人が調整を重ね、何度も聞いてもらい、再現に漕ぎつけました。石炭の燃えカスが付近の民家に飛んで火の始末をした、上り坂で燃料が尽き乗客に押してもらった等、座談会参加者にはご高齢の方もおられましたが、生き生きと楽しく、往時の想い出話や苦労話を話していただき、復元への大きなヒントが得られました。復活運行した直後、ご招待し乗車された時の各氏の笑顔や満足した表情は今も心に残っています。」

驚くようなエピソードもありましたが、大亀さんからはとても楽しそうな様子が伝わってきました。そして山積みすぎる課題にビビったいよ子が聞きたかった疑問をぶつけました。

「これは無理じゃないか?間に合わないんじゃないか?と思ってしまったことはありませんでしたか?」

大亀さん 「議会で公式に復活運行が表明されたのが、平成12年12月。そして坊っちゃん列車の運行が平成13年10月12日です。ゴールまでわずか10ケ月という短期間で、これだけの大プロジェクトが成就したことに正直、驚愕しています。当時を思い出すと、納期にせまられて仕事をしたという思いはありません。マッチ箱のような列車が白い煙をはき、甲高い汽笛を鳴らしながら城や道後をバックに走る雄姿と、県内外の多くの方の笑顔を想像しながら、こうした仕事に参加できていることに喜びと『やりがい』を感じていたことが印象に残っています。」

そうだったんですね~!!社員の鏡すぎる😢!!!といよ子は感動。

完成の喜び。そして現在へ

「では、坊っちゃん列車が完成した時の気持ちを教えてください。」

大亀さん 「2001年10月12日。秋晴れのもと、坊っちゃん列車の出発式が道後温泉駅で行われました。当時、女子マラソンで前年のシドニーオリンピック(2000年9月24日)で金メダル、更にわずか2週間前のベルリンマラソン(2001年9月30日)で世界新記録を樹立した高橋尚子さんと小出義雄監督をゲストに迎えました。世界最速のランナーと、世界で最も遅い列車である坊っちゃん列車とのコラボは印象的でした。」

道後温泉駅前で行われた運行開始セレモニーには、約1,500人の市民の皆さまや観光客の方々が集まり、祝賀ムードに包まれました。初便は道後温泉駅を出発し、松山市駅まで運行。

大亀さん 「道中、近代的なビルの合間を明治ロマン漂うマッチ箱のような坊っちゃん列車が白い煙をはき、甲高い汽笛の音色が澄み切った空気に反響した情景に初めて遭遇した印象は、まさに中村氏の目指したまちづくりの一つが具現化した瞬間であり、政治の醍醐味と松山市のまちづくりには市政と伊予鉄の事業経営の表裏一体性(大亀さんは当時、翌年4月の市議選初挑戦に向け選挙活動中)を感じました。」

実はその日の松山市駅前は、伊予鉄ターミナルビル(現在のいよてつ髙島屋)増改築工事完成を祝う日でした。坊っちゃん列車は、ここでも多くの歓迎を受けたんです♪

大亀さん市駅周辺は大にぎわい。各プロジェクトに携わった伊予鉄の仲間と、安堵と喜びをわかちあいました。20年の時世を経て、再び市駅周辺の整備が進む中で、当時の感動と成功体験を目標に頑張っていきたいと決意を新たにしました。

大亀さんも、いよ子も、改めて決意!

そう、現在松山市駅前は再開発に向けて社会実験期間中。11月8日~11月21日まで、松山市駅前で行われています。2022年度には工事も着工予定となっていて、松山市のまちも新しく生まれ変わろうとしています。交通とまちづくり、いよ子もわくわく!

ということで、今回はプロジェクトメンバーに聞いたお話を紹介しました。改めて、復元に携わった全ての方を尊敬し、いよ子も、伊予鉄の魅力を皆さんに伝えられるようにもっと頑張ろう!と決意したのでした。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!次回の投稿もお楽しみに~♪


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