「伊予鉄道唱歌」の考察
- 2022.06.24
- 伊予鉄の歴史
いよ子です。
皆さん「鉄道唱歌」はご存じですか?
全国各地の鉄道沿線を歌ったもので、明治時代に作られたものです。
一時期は大流行したのだとか。
「汽笛一声新橋を・・・」という歌詞、聞いたことある人いるかもしれません。
大和田建樹作の「伊予鉄道唱歌」
鉄道唱歌の多くは大和田建樹さんという方が作詞を手掛けていました。

その大和田さんが愛媛出身だったこともあり、明治41年、伊予鉄の創業20周年を記念して作られたのが「伊予鉄道唱歌」。
作曲は田村虎蔵という方で、「金太郎」(♪まさかりかついで きんたろう)の作曲者です。
制作当時と内容が違う箇所が!?
その「伊予鉄道唱歌」ですが、実は、明治41年の制作当時と現在のものは実は少しだけ内容が異なります。
というのも、明治時代に作られてから年月が経ち、だんだん歌詞と実状が合わなくなってきたわけです。
そこで昭和28年に国体が愛媛で行われる機会に、一部改訂され、今のカタチになりました。改訂にあたり、大和田さんはすでに亡くなっていたため、越智水草さん(愛媛にゆかりのある方で、海南新聞社(現 愛媛新聞社)や県立図書館の館長などに従事した人)が補作したそうです。


そこで気になるのが「どの箇所が変更されたのか?」というところですよね。
明治41年の元祖「伊予鉄道唱歌」。45年後の昭和28年に、何が変わったのか?その一部を紹介していきます。
新旧唱歌の違い①バス事業現る
編成は二十五番まで。新旧で変更なしです。
共に一番の高浜線から→横河原線→廃止した森松線→郡中線ときて、二十一番から路面電車となっています。
〈六番〉「伊予鉄道の本社ある松山駅の近くには」の「松山駅」が「松山市駅は昼も夜も」に変更。
そうです、「松山駅」という駅名は、昭和2年に伊予鉄が国鉄に譲ったのでした!
さらに、「役所兵営女学校」が削除され、「行き交うバスの絶え間なし」が追加されました。「役所兵営女学校」・・・「役所と兵営と女学校」の3つを指していると推察します。「兵営」とか時代感じます。改訂版で「バス」が登場するのも、明治時代にはなかったバス事業が、急成長してきたことを物語っていますね。ちなみに伊予鉄がバス事業に本格参入したのは昭和19年からです。

新旧唱歌の違い②路線の変遷を反映
路線の変遷がわかって面白いと思ったのは、
旧唱歌の二十一番「…松山に帰りて城の西北を」とあるのを改定版は「城の南北」に変更しています。旧唱歌の作られた明治41年は、松山城の南側には路線がありませんでした。

改定版の頃にはお城をぐるっとまわる現在に近い形の路面電車網が形成されていました。現在も「城南線」「城北線」という言い方をします。そこで、唱歌も「南北」に変えたのでしょうね。
旧唱歌の二十一番「古町木屋町打ち過ぎて 行けば道後の温泉場」とあったのを「電車の道は分かれても 行くは道後の温泉場」と変更したのも、路線が環状になったことを表しているのですね。
新旧唱歌の違い③道後にあった幻の動物園
改定版の最後は「動物園」を見に行くという終わりかたです。
そうです、改定当時の昭和28年には道後に動物園があったのです!その名残が唱歌に残っています。

(参照)伊予鉄ディープ旅第3弾
一方、旧唱歌の最後は、道後で終わるかと思いきや「友の待つ」一番町にまた汽車に乗っていく・・・という感じで終わります。
湯の神社にも詣でたり/いざまた汽車に打ち乗りて/
一番町に疾(と)く行かん/約せし友もまつべきに
その光景が目に浮かぶようで、余韻が残ります。いよ子的には最後の部分は旧唱歌の方が好きです。
昭和28年発行の改訂版「伊予鉄道唱歌」冊子を販売!
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伊予鉄道唱歌Youtube動画
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