路線図の考察~伊予鉄 路面電車の変遷~
- 2022.03.18
- 伊予鉄の歴史
皆さんこんにちは、いよ子です。
さて、突然ですが、この前、倉庫からこんなモノが出てきたのですけど・・・。

・・・っとその前に、今回は路面電車、路線の変遷について、語りたいと思います。
文字多めですが、最後に読者の皆さまにお知らせがありますので、ぜひ最後までお読みくださいね。
道後鉄道の合併
伊予鉄の黎明期は、道後鉄道、南予鉄道、松山電気軌道との合併、そしてそれに伴う線路敷設の歴史でもありました。
伊予鉄の開業から7年後の明治28年、伊佐庭如矢(道後湯之町の初代町長)が道後温泉に客を運ぶために道後鉄道を開業しました。ちなみに夏目漱石が松山に赴任したのは明治28年。小説「坊っちゃん」の中で、三津浜に着いた漱石先生が当時の伊予鉄に乗り込む際、「マッチ箱のような列車」と表現したのは有名ですね。これが言わずと知れた「坊っちゃん列車」という名前の由来ですが、小説の中には伊予鉄と合併する前の道後鉄道と思われる汽車に乗車する場面もあります。
その道後鉄道の終端駅である三津口は伊予鉄の古町駅と近い場所にあったものの微妙に離れていました。(路線図1-図1)
そこで明治33年の合併の際に、三津口駅は伊予鉄古町駅に移転、吸収されることになります。(路線図1-図2)これで道後温泉への乗換など便利になりました。なお、古町駅が現在の場所になったのは、さらに3年後の明治36年です。

路面電車の路線ではありませんが、南予鉄道と合併したのも、道後鉄道合併と同じ明治33年。これら合併は当時、監査役だった井上要氏(後に3代・5代社長)の提唱で実現しました。
合併を機に、隣接していた伊予鉄の外側駅(現在の松山市駅)と南予鉄道の始発駅である藤原駅を併合し、線路の直通化を図りました。これにより、現在の松山市駅を中心とした路線網の素ができたのです。

松山電気軌道の合併と路線の見直し
路面電車に話を戻しましょう。
伊予鉄の路面電車の路線を語る上で欠かせないのが、松山電気軌道の存在です。
〈路線図2〉で、明治44年に道後~住吉間を開業した松山電気軌道の路線を水色で示しています。六軒家と上一万で伊予鉄と立体交差していたことがわかりますね。
松電は資金難もあり、大正10年に伊予鉄と合併しました。松電について詳しくはコチラもぜひ読んでみてください。

この松電との合併後、松山市を中心とする鉄道軌道の交通網が変化していきます。
合併直後の大正10年4月、伊予鉄が元松電の一番町~道後間を休止し、人出が多い時だけの臨時運行としました。毎日の運行は上の緑色の線で示した路線のみにしたわけです。
しかし、これにより、水色の路線で道後まで行く人は一番町で乗換が必要になってしまいました。
乗換が必要になったもう一つの理由は、当時の伊予鉄のレース幅3.6フィート(1.067㍍)だったのに対し、松電は4.8フィート(1.435㍍)だったので、直通化できなかったのです。これを統一するため元松電区間の一番町~江ノ口(松電の起点)を3.6フィートに改造します。これにより道後~江ノ口間の線路は統一され、電車の直通運行が可能になり一番町での乗換不便は解消。お客様にも喜ばれたそうです。
さらに…路線図3をご覧ください。

大正15年には六角堂~一番町間を御宝町経由に変更し、同時に〈路線図2〉で緑色の線で示した道後~一番町間(旧道後鉄道線)を廃止しました。
一方、昭和2年に道後~古町間は、木屋町から右に曲がるルートに変更。住宅街を抜けて上一万に乗り入れることとし、木屋町~道後間の従来路線は廃止しました。また、この年に国鉄予讃線松山駅が開業。
なんとこの時、伊予鉄が国鉄駅の中まで乗り入れたのですね!
貨物の連帯輸送が目的の一つだったようです。駅名「松山駅」を国鉄に譲ったことについてはまた別の機会に・・・。
昭和4年には萱町~古町間が開通。これにより軌道線の萱町~江ノ口間は、古町で高浜線に乗換が可能となったため、廃止となりました。
ダイヤモンドクロスの誕生!
さて、問題は国鉄松山駅から西堀端間の軌道大手町線(0.72キロ)の敷設でした。
これを実現するには、高浜線と軌道線が道路上で平面交差しなければなりません。
そもそも当時の内務省は主要道路を横断する鉄道線すら認めてなかったので、鉄道を横断する軌道線の認可には、ずいぶん苦労したようです。
鉄道・内務省への申請書は昭和9年11月から1年余りを経て昭和11年1月、やっと認可されました。
これがいわゆる全国でここにしかないと言われる「ダイヤモンドクロス」です。

このような変遷を経て、現在の伊予鉄路面電車があるわけです。歴史を感じますね!
長文にお付き合いいただきありがとうございました(^^)/
さて、冒頭のコレ!

みなさん、何の道具かわかりますか?
伊予鉄道の施設部に聞いたらあっさり答えはわかりました。
この道具、昔の測量器具なのだそうです。
今回、軌道線の変遷をお話ししましたが、現代のようなハイテク機器が登場する前、このアナログな測量器具で線路の整備や駅舎の建設をしていたのですね。


今回は特別に、この昭和20年代に実際に伊予鉄で使用されていた測量器具を1台限定で販売することになりました!
伊予鉄マニアショップ(←クリック)で販売しています。売り切れました。
この機会に、鉄道事業に欠かせない、昭和ノスタルジックな道具を手に入れませんか?

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