明治時代後期、台頭してきた🚩反伊予鉄の勢力とは!?
- 2021.11.26
- 伊予鉄の歴史
伊予鉄の歴史はとても長く、ほんとうにいろんなことがありました。
と、今週もいきなり語り部のいよ子です。
伊予鉄が様々な会社と合併を繰り返しながら成長してきたことは、以前書きました。
今回は、その合併に関するお話をひとつ。
アンチ伊予鉄から生まれた松山電気軌道
伊予鉄が松山電気軌道(以下、松電)と合併したのは大正9(1920)年。ここに至るまでには結構な苦労がありました。
そもそも、松電は、現在の松山市三津浜地区の人々が中心となり、「アンチ伊予鉄」を掲げて作られた鉄道会社でした。
なぜアンチだったか?
ざっくり言いますと、港として高浜の将来性を見抜き開発を進めた伊予鉄(井上要※3代・5代社長)に対し、港町として打撃を受けた三津浜の人々が
「三津浜を滅ぼすのは伊予鉄であり、井上社長である」
と目のかたき呼ばわりしていたのです。
そこで当時「汽車」だった伊予鉄に「電車」で対抗してきたわけ。

松電は三津浜の有志を中心に計画され、明治44(1911)年9月に一部運行開始。翌45(1912)年から全線10.05キロの運行を始めました。
ちなみにですが、伊予鉄の方が1ヶ月早く電化しちゃったんですけどね。(明治44(1911)年8月道後-古町間の電化竣工)

激しい乗客争奪戦!
最初から対抗心をもって創業した松電でしたので、運行開始後は伊予鉄と激しい抗争を繰り広げました。伊予鉄道後温泉駅のすぐ横に松電も駅を作ったものですから、鈴を鳴らして両社乗客を取り合ったというエピソードも残っています。


松電は伊予鉄高浜線と道後線を高架横断してこれ見よがしに走りました。
難産のすえに合併成立
一方、松電は資金面の不安もあったのでしょう、実は全線運行開始の前に、伊予鉄に合併話を持ち込んでいたのです。しかし井上要社長は、
「その時期にあらず(キリっ!)」
と申し出を断ります。「伊予鉄が言うことを聞いてくれない!」となった松電は鉄道院に調停を依頼。井上社長は鉄道院から呼び出され合併を論されますが、
「熟考いたします」
としてその場をやり過ごします。
まあ、そりゃそうでしょう。
井上社長はさんざん松電側の皆さんに嫌がらせ受けてたそうですから、
今さら泣きつくなよ。お前らに協力なんぞできるか!(‘Д’)
と、内心思ったことでしょう。↑あ、これ想像です。
その後も、松電の債権者(三井物産)や五十二銀行(現伊予銀行)などの働きかけで話しがまとまりそうになった時もありましたが、その度に松電の合併反対派の抵抗にあい、合併契約は3度も破棄されました。
ようやくまとまったのは大正9(1920)年12月。最後は円満に合併契約が締結されたそうです。やれやれ。
おまけ
松電が創業にいたるには、相当な資金難があったようです。それを救ったのは福沢桃介という方で、なんと、あの福沢諭吉の娘婿でした。
桃介氏は主に電力業界で活躍した大富豪。桃介氏がたまた道後温泉に来ていた時に、松電の当時の社長(渡辺修 氏)から懇願されて松電を視察。出資することになり、会社の実権を握ります。
当時、鉄道(電車)と電気は相性が良い組み合わせだったことも、桃介氏が松電に出資した理由の一つかもしれません。
* * * * *
今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました!

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