高浜開港ストーリー
- 2023.02.03
- 伊予鉄の歴史
こんにちは、いよ子です。
以前このブログで明治時代に三津浜から起こった「反伊予鉄」のムーブメントについて紹介しました。
その名も「伊予鉄反抗連盟」。
その根っこにあったのは高浜港の開発を進めた伊予鉄に対する反感でした。
今日のブログはその前夜となる話です。
高浜港に着目した井上要(第3・5代 伊予鉄社長)
高浜港ができるより先に、松山の海の玄関口としては「三津浜港」が古くから栄えていました。
しかし、
・遠浅
・西風が強い
など港として不利な面もありました。
その点、伊予鉄の終点である高浜港は海底が深く、大きな船でも大丈夫な港でした。
井上要(第3代・5代伊予鉄社長)をはじめとする伊予鉄首脳陣は「高浜港を改良すれば理想的な港湾になる」と着目していました。
海と陸の交通拠点を三津から高浜に移し、そして鉄路と航路を結節する。
そのタイミングをうかがっていたのです。
動いた伊予鉄
明治36年、大阪で「第5回内国勧業博覧会」が開催されたのを機に、伊予鉄は動きます。
大阪商船(現 商船三井)と折衝を重ね、伊予鉄から航路を経由し、山陽鉄道※の各駅のほか、国鉄主要駅とを結ぶ「連帯運輸」の契約を締結します。なお、民営鉄道による鉄道と汽船の連帯運輸としては、伊予鉄のこの取り組みが成功した最初の事例だと思われます。
※山陽鉄道:明治21年創設された兵庫県の鉄道会社。のちに国有化され、現在はJR西日本山陽本線となっている。
高浜港の完成
一方、八束喜藏(4代伊予鉄社長。当時は取締役)らが高浜起業株式会社を設立し、高浜港の工事を着実に進めていきます。
桟橋の整備など、全てが完成したのは明治39年9月11日、盛大に高浜開港式を開催しました。
この日、高浜は大変な人出となり、鉄道をフル稼働しても間に合わないほど賑わったそうです。
高浜開港と同時に伊予鉄は大阪など23港との連絡切符の発売を開始しました。これを機に、それまで三津浜に寄港していた大阪商船の船はことごとく、高浜港に寄港することとなります。三津浜に集まっていた貨物などが一気に高浜に集まるようになり、伊予鉄も増収になったのです。
この高浜開港を良しとしなかったのが、「伊予鉄反抗連盟」なわけですが、そのお話はこちら。
高浜開港とロシア人捕虜
高浜開港にあたり、桟橋や倉庫、待合所など大きな工事が必要でした。この頃は日露戦争の真っ最中で、ロシア人捕虜が絶え間なく松山に収容されていました。政府の方針でロシア人捕虜は厚遇されていたようで、温泉に入ったり、伊予鉄を使って遠足にも行ったらしいです。この話を知っているロシア兵は、投降する時に“マツヤマ”と叫んだといわれています。
時間を持て余しているロシア人捕虜を見て、井上要は「このロシア人を高浜港の工事に役立てられないか」と考えました。知り合いで、連合艦隊で有名な、あの秋山真之(当時海軍中佐)を通じ、陸軍省と協議したところ、「捕虜労役規程」はすぐ承認され、10数名のロシア人捕虜が工事に従事しました。
彼らの労働に対して、「賃金」は規程により支払えなかったため、果物やタバコを支給したところ、大変喜んだそうです。しかし、その後3日ほどは働いたのですが、突然「賃金出さないなら働かない!」と言い出して、働くことをやめてしまったのだとか。
松山には、この地で亡くなったロシア人捕虜97名を埋葬しているロシア兵墓地があります。現在も地元の皆さんの協力で慰霊祭や清掃を続けています。
今回は明治時代の高浜開港にまつわるお話を紹介しました。
普段、何気なく使っている港にも歴史あり!ですね。
それではまた。
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