伊予鉄が電力会社!?

いよ子です。

今回は伊予鉄と「電気」についてのお話です。

伊予鉄の創業者、小林信近は起業精神にあふれる人物だったことは以前ご紹介しました。

ベンチャー起業家!? 伊予鉄の創業者 小林信近

実はその小林翁、電力事業にも大変関心がありました。石炭を燃料とする鉄道が、その後電気で走ることになるわけですから、鉄道事業者として目の付け所がナイスですよね。

伊予水力発電所を設立

明治25年(1892年)、電力に関心が高かった小林翁は水力発電に着目して調査を実施。しかし当時は電力に対する需要が少なく、事業化には至りませんでした。ところがその後、電力事業に携わるチャンスが訪れます。

明治28年(1895年)、電灯会社設立に協力を求められ、小林翁はその発起人に名を連ねます。計画は一旦中止に追い込まれるほど困難を極めましたが、当時“電気王”と呼ばれていた才賀藤吉の支援を得て、明治34年(1901年)12月、四国電力の前身である「伊予水力電気株式会社」が設立されました。

当時の世界最高水準~湯山第一発電所~

四国最初の水力発電所「湯山第一発電所」は、愛媛県松山市の石手川上流に建設されることになり、明治35年(1902年)4月に着工、同36年1月に運転を開始しました。当時、この発電所は世界最高水準でした。明治36年(1903年)に大阪で開催された内国勧業博覧会では模型を出品し、大いに関心を集めました。また、アメリカのセントルイスで開かれた世界博覧会にも模型を出品し、銀牌を受けるなど、輝かしい成果を残しました

郷土の発展に尽くした湯山第一発電所の水車と発電機は、歴史的記念物として愛媛県新居浜市の「愛媛総合科学博物館」に展示されています。(写真提供:愛媛県総合科学博物館)
展示物は公式YouTube【伊予鉄公式】いよ子の鉄道クラブでも紹介していますよ(11:13~)

”電気王”の破綻と井上要の登場

才賀藤吉は“電気王”と言われるだけあり、その手腕で事業は大きく進展したのですが、大正元年(1912年)に、なんとその才賀氏が突然破綻!灯台を見失った船のように、伊予水電は危機を迎えます。この時、伊予水電の再建のため、当時の伊予鉄社長であった井上要氏が伊予水電の社長に就任。井上社長は「伊予鉄の経営は堅実・好調。鉄道と電気という二つの事業を合併するのが得策だ!」として、大正5年(1916年)に両社の合併を成立させます。社名は「伊予鉄道電気株式会社」とし、四国最大の会社となりました。

伊予鉄道電気時代の車両銘板(坊っちゃん列車ミュージアムに展示中)

電力会社を次々に合併

新会社設立後、伊予鉄電は県内各地の電気事業者を次々に合併。合計8事業者を傘下に収め、一部島しょ部を除き、県内の電気事業の統合を図りました。その電気供給区域は愛媛県のほか南は高知県の一部、東は徳島県の3県にまたがるものでありました。電力需要の増加に伴い、会社も飛躍的に発展していきます。

電力統制への道

しかし…日中戦争のさなか、国による電力管理が進み、昭和16年(1941年)には「配電統制令」が交付。これにより四国では「四国配電㈱」が創立されることになり。伊予鉄電はこの会社に電力事業のすべてを出資することになりました。つまり、伊予鉄電から電力事業がなくなるということになったわけです。昭和17年(1942年)、伊予鉄電は解散し、運輸事業のみを行う「伊予鉄道」があらためて設立されました。

電力事業を失った伊予鉄は会社が縮小し、「果たして大丈夫なのか・・・」と心配されましたが、経営陣は経費の削減や資産管理などにより、経営の安定化に成功。さらに戦時景気により旅客も増加し、その後の発展に向かう希望の光が見えたのでした。

71年ぶりに電力事業復活

実は平成25年(2013年)、実に71年ぶりに発電事業が復活しました。太陽光パネルによる発電事業で、スタート時は年間約120KWh(路面電車に使用する電力の約40%相当)を発電。平成27年(2015年)には発電設備を増設しました。

以上、伊予鉄と「電気」にまつわるお話でした。

それにしても伊予鉄が現在の四国電力の前身となる電力事業を行っていたなんて…歴史って面白いですね!

それでは今回はこのへんで。


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