愛媛におけるバス事業の黎明期

いよ子です。

伊予鉄の歴史といえば、小林信近翁が導入した日本初の「軽便鉄道」だったり、「電力事業」の話だったりするわけですが、もう一つ大きな事業があることを忘れていませんか…?

そうです!バス事業です!

今のバス事業が確立されるまでは、先人達の努力と険しい道のりがあったそうですよ🤭

日本における自動車のルーツといえば、明治33年当時の皇太子のご成婚に際し、アメリカの在留邦人会がお祝いに献上した「四輪の自動車」。乗合馬車と人力車が主流だった時代を考えると、かなり画期的だったと想定できます🤭

バス事業への挑戦

遡ること、116年前の明治41年、松山市の有志によって発足された自動車会社により申請された区間、①温泉郡素鷲村の立花~伊予郡原町村の間で初めて営業が許可されました。その他、②温泉郡北条町~同郡御幸村山越間、③北宇和郡八幡村大字下村~同郡吉野生間、④宇和島町大字元結掛~同郡来村字松鼻間の認可を申請、この3区間についても後に認可されることになります。

↓経路の詳細はわかりませんが、4つの区間は概ねこの辺りだったと考えられます🧐

愛媛初のバスは「堀江~山越」間

ところで、先に営業許可のあった立花~伊予間と、後日認可されたはずの残り3区間は、どうしたわけか直ぐに営業は開始されませんでした。

それはなぜか…?当時の海南新聞(現在の愛媛新聞)によると、陸上交通の主流であった、「乗合馬車」と「人力車」の間で対立があったということです。

それは、バスが参入してくれば存続が危ぶまれるので当然と言えば当然ですね🧐

自動車の台頭によって日本各地では、争いが起こっていました。広島では、自動車の営業を人力車の車夫が妨害することから、事務所では車夫の襲撃に備えて護身の銃まで置いていたと言われています🧐

自動車と乗合馬車・人力車の双方でどんな協約が結ばれたかは不明ですが、バス事業の申請者の一人であった「石丸おさむ」氏のもと、「松山市木屋町口(山越)~堀江間」の運行がスタートしました。これが愛媛県下で最初の旅客運送事業なんですね。

後に、石丸おさむ氏は事業に失敗し放棄をすることになりますが、その前後(大正5年頃)八幡浜の医師、上甲兼によって「伊予自動車株式会社」が設立されました。この伊予自動車株式会社が愛媛県下で最初のバス会社と言われています🧐

バス事業の統合

これをきっかけに、愛媛県内では中予自動車や面河自動車などバス会社の設立が相次ぎ、次第に路線も競合していきます。こうした乱立ぶりの中、県外勢力も加わり競争は激化していきます🧐

その後、増えたバス会社同士が合併を繰り返しました。その中で伊予鉄電も参画し、バス事業を担っていくこととなりました。

今回はこの辺で失礼したいと思います🤗

ここまで読んでくれてありがとうございました。それではまたっ🥰


鉄道コム