二度も燃えた伊予鉄本社?!今の本社は何代目?
- 2022.01.20
- 伊予鉄の歴史
いよ子です。
今回はステキなお知らせが最後にありますので、お見逃しなく!
さて、長い歴史の中で、伊予鉄本社は松山市駅と同じ場所にあった時代が長かったのですが、現在は松山市駅から道を挟んで東側、ターミナルビルとは別にあります。
初代本社はどこにあったのか?
初代本社は明治21年の創業時のものになりますが、
その場所は当時の定款によると
第三章 会社ノ位置 当会社ノ本局ハ温泉郡藤原村福正寺前ニ置ク
となっています。
当時からある福正寺さんの場所からすると、ちょうど現在の松山市駅南側にあったと推察されます。
「線路の起点」である「松山停車場」(現 松山市駅)も同じ場所で示されていることから、「松山停車場」と本社が同じ場所、すくなくとも隣接していたことが伺えます。
この「松山停車場」は明治22年に「外側(とがわ)」、明治35年に「松山」へと改称。昭和2年、鉄道省・讃予線(のちに予讃線に改称)の松山延長に伴い、「松山」の駅名を鉄道省に譲り、現在の「松山市」という駅名となりました。
二代目本社が建設されたのは創立20周年を迎えた明治41年。
一代目本社と松山駅(現 松山市駅)は大変狭くて不便だったようです。
そこで市街宅地や田んぼを買収。軌道を架け替えたり、工場の増築などを行うとともに本社と駅を新築しました。
三代目本社の建設は、伊予鉄が電気事業を開始し、「伊予鉄道電気株式会社」となった大正6年。
業績不振だった電力会社(伊予水電)を合併した時です。
合併当初は鉄道と電力部門の事務を分離していたのですが、これを併合し、伊予鉄道電気の本社を新築したのでした。
ところが・・・2度燃えた本社
新本社が完成した翌年1月、近隣にあった映画館「松山館」で火災が発生!
炎は新築して数ヶ月の松山駅(現 松山市駅)と本社に燃え移ってしまいました・・・。
この悲劇に当時の八束社長は体調を崩してしまったそうです。(そこで井上要さんが再び社長として登場することになったわけです)
再築工事が完成したのは翌年の大正8年。これが四代目本社です。
この年は開業30年にあたり、それも兼ねてモチまき、福引、電気猿???など記念式典を盛大に行いました。
しかし、第二次世界大戦の末期、昭和20年7月26日の松山大空襲で、本社は焼失してしまいます。
当時の武智社長をはじめ、駆け付けた社員は懸命な防火活動を行いましたが、手の施しようがありませんでした。
このような惨状の中ではありましたが「輸送機関の停滞はできない!」と、戦災の翌日から一部の運行を再開。車両を疎開させていたことが功を奏しました。とても誇らしいエピソードです。
戦後復興と市駅前の発展
五代目本社と松山市駅が再建されたのは昭和25年。
戦後復旧に5年かかったのですね。落成式は、この工事と並行して行われた郡中線電化開通式と合わせて行われたそうです。
式典の日は朝から花火打ち上げ、演芸大会、マラソン大会???などが行われ、とにかく祝賀ムードに包まれました。
戦後復興から、松山市駅周辺は目覚ましく発展していきます。伊予鉄では「松山市駅総合ターミナル整備計画」を立て、長期的に様々な建設計画を練っていました。それが伊予鉄西ビル(現在「レフ松山市駅byベッセルホテルズ」があるビル)であり、まつちかタウンであり、百貨店であり、バスターミナルでした。
昭和46年、整備計画の総仕上げとして、伊予鉄ターミナルビルが完成。
同ビルの主体を百貨店「いよてつそごう」とし、4階の一部を本社事務室としました。これが六代目の本社です。
ただし、設立当初から百貨店が軌道に乗れば、本社事務所は移転することになっていたようです。
百貨店は順調に推移し、伊予鉄は新しい本社建設に着手。
昭和52年11月24日、七代目本社が完成。これが現在の本社ビルというわけです。
思えば初めて松山市駅と本社が分離したのですね。
さて、現在の本社が完成したのは、創立90周年の節目にあたる年でもありました。
その時に作った記念乗車券と年史が保存されています。
今回はこの記念乗車券と貴重な写真満載の90年史「坊っちゃん列車と伊予鉄道の歩み」をセットで、伊予鉄マニアショップで販売することになりました!
この本は開業からの記録・写真集です。特に写真は見ごたえあります!
記念乗車券は裏面に機関車と客車のレア情報が記載されていますよ。 ぜひ手に取って眺めてみて欲しいと思います。
※売り切れました!ありがとうございました!
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